人生の虚しさを感じて一人熱海旅行に来たけど、結局は中二病だった

「年末は一人で熱海旅行に行きます」

12月末に開かれたウチの社長との会食でそう報告したら、「へぇ、すごいね、自分は絶対無理。誰かと一緒じゃないとダメだな」とお褒めの言葉を賜った。俺は内心うれしかったが、それは社長に褒められたからではない。社長より「高尚」で「孤高」な人間だと実感したからだ。

 

今、この文章を熱海の場末のゲストハウスのロビーで書いている。さびれた熱海の町の景色、ダサい看板を照らす光、そして真っ暗な夜の海が眼下に広がっている。年末特有のダウナーな気分が増幅される、最高のシチュエーションだ。今年を締めくくる一人旅の総括として、書き残そうと思う。

 

■そもそもなんで熱海に来たのか?

結論から言えば、自分の人生を振り返るためである。

年末は「時間」という概念を嫌でも意識させられるタイミングであり、人生の振り返りタイミングとしてはもってこいだ。多くの人は同じことを考えると思うが、自分はちょっと違う。毎年、東京近郊に旅行に行き、安い宿に泊まって振り返りをする。

単に振り返りをするだけなら家でもいいが、普段の生活圏から地理的に離れた場所の方が思考が自由になる気がする。そんな期待を込めてちょっとした旅とも言えない旅に出る。

なお、宿泊するのはいつも安宿と決めている。人生を見つめ直すのに、高級なホテルは不要だ。いや、むしろ、邪魔ですらある。人生の振り返りをするためには、「死」を直視する必要がある。「世界はくだらないし、人は必ず死ぬ。人生は短く、虚しい」そういった事実をごまかしくなく見つめて初めて、本質的な人生を振り返りができる気がする。現実を直視するためには、高級ホテルの安らぎや安寧はごまかしになる。あらゆる虚飾がはぎ取られた場末のゲストハウスで孤独を味わい尽くしてこそ、日常で覆い隠された人生が見えてくるのだ。そうした現実直視の上で、自分がどうするか?を考える必要がある。

熱海という場所を選んだ理由に大したものは無い。この1年、仕事で疲れ果てており温泉につかって休みたい、居住地である新宿から近い、人も少なくて静そう、有名な場所だし一回行ってみるか、くらいの思い付きである(あと、山が近くで海が近いのもポイント。自然の中の方が視野が広がって、大きなスケールで人生を考えられる気がする)

 

■熱海に到着

電車で2時間ほど、熱海駅に到着。まず、意外と人が多いことに辟易(しかも、大学生らしいカップルがいる!)。ゲストハウスに向かう道中、商店街らしき場所を通っていくが、本当に人混みが邪魔くさい。軽薄なやつらだなと内心見下しながら、目的地へ進む。

ゲストハウスに到着。やれやれと一息ついて、さっそく人生を考えさせられる本を読む。岡本太郎の『自分の中に毒を持て』だ。

 

■自分の中に毒を持て

心が揺さぶられた。人間らしく生きること、、情熱を燃やすこと、、小市民的な幸せではなくあえて危険な道を選ぶこと、、

仕事で成果を出したと周囲から認められつつ、絶望的な虚しさを感じていた自分の肺腑に響きまくりやがる本だった。俺も迸る情熱に忠実に、奔放に、自在、破天荒に、枷にとらわれずに人間らしく生きていきたい。

特に「無目的」というのが重要だ。結局、「将来のための今」を生きるのではなく、「今この瞬間」を生きるということ。これは、ホイジンガの「ホモ・ルーデンス」の概念に通じるし、ニーチェの三段階の精神の変化(ラクダ→獅子→幼子)の最終形態である「幼子」にも共通する思想だろう。自分は、岡本太郎が言いたいのは、原始的/プリミティブな欲求を思う存分開放するという意味なんじゃないかと解釈した。

そもそも人は「何か能力を発揮したい」という原始的な欲求を抱いており、その本能に根差した能力の向け先が情熱になるんじゃないかという仮説を立てた。

着想のヒントを得たのは、國分 功一郎『暇と退屈の倫理学』にある「定住革命」という概念だ。つまり、人はもともと移動生活を行っていたが、気候変動の影響により、定住生活を強いられた。移動生活を送っているうちは、狩猟採集や索敵など、多様な能力をフルに発揮することができた。ところが、定住を行うとそうした能力を生かす機会が失われてしまい、「暇」という概念が生まれた。「暇」は人の潜在能力を持て余した状態であり、生物の本質からして苦痛である。そして、人は「暇」を解消するために、文化を作り上げた。持て余した能力を思索に向けたのだ。実際、定住生活が始まったタイミングで、人は宗教や芸術などの文化を急速に発達させているらしい。

こう考えた時、芸術は一つの能力の向け先であるのはうなずける。生産活動とは違い、それ自体が無目的で、シンプルな能力の発揮が芸術なんじゃないか。また、「遊び」のもそ喜びもこれで説明ができそうだ。ようするに、移動生活で行われていた狩猟の代替が「遊び」になったんじゃないか。

生物としてのヒトが本来持つ本能的な欲求を制限しないようにしたい、知らず知らずのうちに自分の中にはめていた枷から逃れたい。自分もその時々で湧き上がる力の方向性に従い、自然に気の赴くまま、生きていきたい。まずはこの旅行から実践していこうと思った。

 

■規範からの解放

まず、ゲストハウスでおすすめの温泉がどこかをヒアリングしてみるが、行かないことにした。気分が乗らないし、歩くのもめんどくさい。旅の目的をさっそく無視する逸脱行動である。また、お昼ご飯はご当地名物の海鮮はあえて食べずに、豚丼をチョイス(タレが甘ったるくて気持ち悪くなった)。

さらに、ビーチに気まぐれに赴き、カップルがはしゃいでるのを横目に、砂浜で泥団子を作ってみた。子供の頃は泥団子作って遊んだな、遊び心が自在なんじゃないか、と思考する。ふと、そうして作った泥団子を、近くに植えられているヤシの木にぶつけてみようと思い立つ(ヤシの木は不自然にライトアップされている。こんな真冬の日本でヤシを照らすな。という軽い反発を抱いていた)。よしぶつけてみよう。泥団子を力いっぱい投げたつもりだったが、うまく力が泥団子に伝わらず、結局、「ぺちょっ」とした気の抜けた当たり方をした。力みが空振りして、全く爽快感はない。泥団子を作った手が海水で汚れてべとべとしている。汚い。むなしい。急に周りの目が恥ずかしくなって、ゲストハウスへ逃げ帰った。

 

■内省

ゲストハウスのロビーで再び人生の振り返りと内省をする。自分をメタ認知して気が付いたことがある。

結局、規範から逃れて時々の思いに従って動いてるように見えて、ただ、「逸脱」を目的にしてるのではないか。「他の人と違う人になりたい」「自分の人生は虚しいものであっていいはずがない」と思いたいだけなんじゃないか。結局はその考えに囚われていて、無目的な行動に見えてまったく自在じゃない。不良が不良でありたいとして逸脱をしているのと同じだ。奔放なように見えて、実に優等生的・インテリ的な思考過程な気がしてならない。

そういえば、人生について振り返りたい、死を見つめねばというのも、「人生の本質から目をそらさない自分」を演じてる(志向している)だけなんじゃないか。仕事が疲弊したのも、あえて仕事の不幸に目を向けているのも、そういうインテリ特有の自意識があるのではないか。大学時代に読みふけった哲学者の中島義道に影響されているだけだ。

知性も感性も凡庸な、小市民。でも、そうはなりたくないという肥大したプライドがあるだけの、凡人なんだな。おそらく、そういう人は世の中に無数に生息している。このブログを書いてそんな自分をメタ認知して、自虐的になるのも、そういうプライドがあるからに過ぎないのかもしれないと思うと、どこまでも思考に終わりが無い。「本当の天才」はこんなことに悩んでないんだろうとも思う。

 

世間では、こういうのを「中二病を拗らせてる」というのかもしれない。

なんつってる間に今年も終わりっすよ(笑) あ~あ、人生の辛いとこね、これ